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彼女の福音

弐拾弐 ― セオリー通り ―

 ここのところ、ずっと二人の過ごす場所が僕の部屋、という果てしなく不毛かつ無雰囲気なロケだったので、僕はとうとう杏に光坂市に来るようにと彼女命令されてしまった。しかも、「二人ですることを思いつくこと」とかいう変な宿題までつけられた。自慢じゃないけど、僕は中学二年の頃以来、宿題って物はすっぽかす、とデフォルメオートバイク(注:デフォルト・オートパイロットと言いたいらしい)だし、そもそも先生から何かしろ、と言われるのが大っ嫌いなんだ。しかし、無論そんな言い訳が通用するはずもなかった。

「忘れたりしてたら、どうなるかわかるわよね?」

 現役バリバリの幼稚園の先生にそう言われて、僕は頷くしかなかった。いや、どうなるかはわからなかった。むしろ、そっちのほうが怖かった。

 

 

 

 

「ま、陽平にしちゃあ、無難な案よね」

 ぴこぴこ、とストローを口にくわえながら杏が言った。僕が頭をひねって考えた案、それは映画を見に行く、というものだった。

「でしょ?何か凄そうだし、微妙にラブ入ってるようだし」

「原作、結構有名な漫画よね……あんた、読んだ?」

「いや、それは読んでないや。今度二人で漫画喫茶行こうよ」

「あんまりぱっとしないからいいわよ。じゃあ、それが始まるのが二時だから、それまでどうする?」

 からり、とコップの中の氷を突くと、杏が聞く。

「……」

「まさか考えていなかったとか?待ち合わせ十時なのに二時からのことしか思いつかなかったとか言わないわよね?」

 一瞬だけだったけど、杏の目が鮮血の色に輝いたような気がした。

「ま、まさかそんなこと、ないよ?あは、あはははは……あ、そ、そうだ杏、何か買い物しよう、うんそうしよう」

「特に買いたいものないんだけどねぇ……まぁいいわよ」

 というわけで、商店街を二人で歩き回った。まだ十一月の半ばをちょい過ぎたころなのに、クリスマスの広告やら何やらがあったのには少しへきへきした。

「それを言うなら辟易でしょ。あんた、簡単な横文字も満足に言えないんだから、難しい漢字を使おうとするのもよしなさいよ」

「何だよ難しい漢字って。じゃあ聞くけど、杏にしてみれば僕のボカブラライはどの程度なわけ?」

「ボキャブラリー、って言いたいの?ええっと」

 少しの間首をかしげると、頷いて言った。

「小学四年生ぐらい?」

「……」

 うわぁ

 よりにもよって小学四年生かよ、僕。

 何だよそれ。それじゃあのび太君じゃん。

「あのねぇ杏、僕だって小学生以上の脳みそぐらいはあるよ」

「近頃の小学生って凄いわよねぇ。中学の時点で受験なんだから」

「……」

「おうちに帰ったら即塾。もう休むまもなく勉強よ?」

「……」

「算数だってもう数学レベルだし、英語もペッラペラ」

 負けた。

 英語がぺらぺ〜らなんだ、近頃の小学生。ここはどこ?いつの間に僕はフランスに迷いこんじゃったの?

「それを言うならアメリカかイギリスでしょ」

「はっはっは、杏、いくら僕が馬鹿でもその手には乗らないよ?アメリカやイギリスではね、米利賢語で喋るんだよ?」

「……」

 杏がものすごおく哀れなものを見るような目で僕を見た。

「陽平……あんた……あんた」

「何?僕の知的レベルの高さに物も言えないの?」

「……ある意味そうよ。でも、絶望しないで。無茶したらだめだからね?あたしがついてるからね?」

「何で僕、同情されなきゃいけないんすかっ!!」

 

 

 

 

 

 

 とまぁ、そんな感じで僕らは商店街を回った。

 ファンシーショップの前では熊のぬいぐるみがあったから二人で「智代ちゃんに言ってあげないとね」「ね」と笑ったり、女性下着専門店の前で気まずそうに行ったり来たして杏が出てくるのを待ったり、CDショップで爆弾を見つけたり(かっこつけてクラシックのセクションで「天才の調べ」とかいうのを視聴したら鼓膜が破れた。まさか天才は天才でもことみちゃんだったなんて)、ゲームセンターで二人で例のアリクイに挑戦(してぼろ負け)したりした。

 何でだろうね、大したことをしてないのに考えてみると結構楽しんだ気がした。なんてことを杏に言うと、よくわからないけどとびっきりのいい笑顔が戻ってきた。

 結局、買った物といえば手袋二組。同じデザインの、黒とベージュのスエードのもので、よくわからないけど一緒のときは着ることを義務付けられていた。それでもまぁ、僕って大人なジェントルマンだからさ、そんな杏の子供っぽい我侭にも寛容なのぼぐふぁぺっ

「何か言った、陽平君?」

「あんた、何勝手にナレーション聞いてるんだよっ!」

「彼女の務めよ。何か文句ある?」

「……ありません」

「よし。ほら、チケット買わないと」

 そうやって急かす杏のことを、まぁ、かわいいとも思わないでもなかった。

「でも何か楽しみだね。何々、アニメと実写の融合!邦画はここから変わるっ!だってさ」

「ま、アニメも実写も、ここんところCGに頼るからね。そんなのもありじゃない」

「あっ、見てみて、文春木苺賞2004年度はトップだって。ふ〜ん、ま、一位はすごいよねぇ」

 そういう風に期待を膨らませながら、僕たちは映画館の中に入っていった。

 

 

 

 

 

 

 ぴこぴこ

 杏がストローを動かす。

「前衛的な心?それはあったんだよね。ほ、ほら、台詞をさ、棒読みにするところなんか斬新じゃん?」

「心じゃなくて試みね」

 ぴこぴこ

 彼女様は眉をひそめたまま、「悪魔男」のパンフレットを冷たく覗き込んでいた。

「親切だよねぇ、台詞で全部説明しようとしてくれるなんて。いやぁ、あれなかったら、わけわかんなくてさぁ」

「今でもわかんないわよ。何であんなところで著名な相撲取りや派手な衣装で有名な歌手が出てくるのか」

「そ、そう、それ。スタッフも豪華だったよねぇ。何で来たのかよくわからなかったけど。でも、主演とかが全部『初めて』なのにはびっくりしたねぇ。ほ、ほら、新人教育って大事だし」

 ははは、と空虚な笑いが喫茶店の中に響く。とどのつまり、スカもスカ、大スカ物だったわけだ。

 原作は結構有名な漫画らしくて、大筋はそんなに悪いものじゃない、と思う。悪魔と同化した青年が、愛する女と人類のために化け物と戦うけど、結局は人間に裏切られてしまう、というものだ。深く掘り下げていけば、「暗い騎士」みたいな名作になれたんじゃないか、とは思った。

 しかし駄作は駄作だ。劇場内には原作ファンも来てたようで、「ふざけんなよっ!」だの「学芸会で原作汚すなっ!」だのの声がよく聞こえたり、ばたん、と急にドアが開いたり(ファンが堪え切れずに出て行ったらしい)とまぁ、わーおカオス☆な状態だった。

 ぴこ。

「ねぇ陽平」

 びくっ、と僕は背筋を伸ばした。

「は、はひっ!」

「……いや、そんなに緊張しないでいいわよ。映画しょぼかったの、あんたのせいじゃないから」

「え、あ、うん」

 どうやら首は繋がったらしい。

「ま、話のネタにはなるけどね……さてと、何しよっか」

「あ、あー、そーだねー」

 というかネタ切れっす。いやぁ、どうしろと?

「じゃあ、そうね……ね、陽平」

 ふと思いついたかのように杏がいたずらっぽく笑う。

「あんたに見せたいところがあるの」

 

 

 

 

 

 

 

「ね、ねぇ陽平」

 商店街を抜けて歩いていると、杏がそっぽを向きながら言った。

「どうしたの?」

「あ、あのね、あたし達、その、ほら、付き合ってるでしょ」

「そうだけど……」

 改めて言われると、やっぱり嘘なんじゃないかなぁ、とか思ってしまう。高校時代のクラスメートが見たら、絶対に悪い冗談だと思うんじゃないかなぁ。

「でさ、その……今度さ、あたしの両親に挨拶してほしいんだけど……」

「え?」

 両親に挨拶?何だか話が大事になってきたりする気が……

「だって、あたしたち大人だし、恋人だし、あたしかわいいし……」

「いや、最後の関係ないでしょ」

 大体、杏と椋ちゃんの両親、というのが想像つかない。この無限の暴力と、あの底知れぬ謀略の根源、となると……

 

 

「ねえねえパパ、これがあたしの彼氏、春原陽平よ」

「何だとぉ、貴様、私の娘に手を出すとはいい度胸してるな。この釘バットの錆にしてくれようか」

「お母さん、このままじゃお姉ちゃんが可愛そうだよ。百年の恋も冷める占いとかってないかな?」

「はいはい、待っててね。えっと、がまの生き胆に、セミの生き血、蛇の腸を煮込んでおけば……」

 

 

「ん?どうしたの、陽平?真っ青になってるわよ?」

「アハハハハ、アチャー、イケナイヤ、僕、ココノトコロ仕事入ッチャッテルヨ」

「はぁ?あんたねぇ、安月給の擦り切れ要員なんだから、一端の商社マン夫婦みたいに『あたしと仕事、どっちが大事なのよ』とか言わせる気?」

「い、いやぁ、そりゃあ」

 しかしこの場合僕の置かれている状況はそんなもんじゃない。誰だって、「彼女と命、どっちを優先させる?」と聞かれたら「命」って答えるだろう。

 しかし

 それでも

「そりゃあ、杏のご両親に挨拶しにいかせてもらいます」

「よろしい」

 僕は勇者的な発言をした。いや、別に僕が馬鹿だからとか、杏様にぞっこんだからとか、そういうわけじゃなくて、何つーか「仕事」とか言おうもんならさっきから視界の端でちらついている辞書様が僕のお顔にドッキング、どうせバッドエンドなら少しでも長く生きようという、非常に不毛な選択の結果だった。

「あ、ここよ、ここ」

 杏が僕のそばを離れて少し先に走り出し、そしてとある門を指差した。

「光坂東……幼稚園?」

 僕は杏に向かって「おいおい」というような顔をした。

「ねぇ杏、いくら外見が若く見えるからって、今更砂場でお遊戯なんてないだろ?あ、それとも実はそれしたくてデートぱぎゃ」

 硬くてそれなりに重い物体が、僕の顔の右半分を抉り取った、様な気がした。まぁ、それだけ痛かったってことで。

「馬鹿な事言ってるんじゃないわよ。ここ、あたしの職場よしょ・く・ば」

「あ、そうか」

 はぁ、と杏がため息をついた。

「ここであたしの夢とかそういうものをドラマチックに語るつもりだったのに……どうしてくれるわけ?」

「すんません……で、ここなんだ」

 ん、と頷いて、くるりと一回りした。

「普通は園児達でいっぱいなのよね。汐ちゃんもここで駆けっこしたりするの」

「汐ちゃん、元気?」

 すると、なぜか誇らしげに杏が笑った。

「もっちろんよ。時々お休みするときはあるけど、いつもは好奇心旺盛に駆け回ってる。ほんと、よかった」

 遠い目をしながら、「本当に、よかった……」と繰り返す杏。僕はただ、そんな優しそうな顔をする杏に笑って頷くだけだった。

「で、雨のときはどうしてるの?」

「そういう時はクレヨンの時間よ。お話の絵を描いたり、題を決めて描いたり。さっきの話だけど、汐ちゃんの絵にダンゴはデフォルト。渚の影響よねぇ」

「だねぇ。あとはオッサンや早苗さんとか」

 

 

 

 

「あれ、どうしたんですか悠馬君?」

「何でだろ。また俺のことがどっかで忘れられてる気がするんだ、渚」

「そ、そんなことないですっ!皆さんが悠馬君の事忘れても、その、私はいつも覚えてますっ!」

「渚……」

 

 

 

 

 その時

「あれ、きょーせんせーだ」

 幼稚園の門、その外から子供の声が聞こえた。

「わあ、きょーせんせー、なにやってるのー」

「えー、だれこのひと」

「あっ、わかったー。きょーせんせーのなおんでしょ、な・お・ん」

「ばーか。きょーせんせーになおんなんているわけないでしょ」

「ねーねー、なおんってなーにー」

 何だか頭が痛くなるような会話だった。って、何で僕が杏の女なのさっ!

「きょーせんせー、このひと、せんせーのぼーいふれんどー?」

「ええと、まぁ、そうね。うん。あたしの友達」

 さすがに大人の会話を子供にするのはよくないと思ったんだろう、そういう風にごまかす杏。

「じゃー、きょーせんせー、およめさん?」

「あはは、まだまだそんなんじゃないわよー。もう、馬鹿なこと言わないの」

 と言いつつも、照れ笑いしちゃったりして。でも、そうだねぇ、かわいいもんだよねえ、子供って。

「あはは、ぶっざいくなかおー」

「そーだねー。へんなかおー」

 前言撤回。何だこのくそむかつくジャリは?いっちょ大人のまな板って物を教えてやろうじゃないかよ。

「それって、まなーっていうんだよー」

「あっはっは、ばーかばーか」

「何だってこのちびっ子……」

 僕がくわっ、とした顔をすると、

「あっ、みっちゃんがぴーんちっ!」

そんな掛け声が聞こえたかと思うと

 

 

 どげしっ

 

 

 背中に激痛。そういやぁ、ここんところ智代ちゃんに蹴られてないなぁ。あっちのほうが痛いなぁ。あはは、でも、三歳ぐらいの子供の全体重の乗った蹴りも痛いなぁ、とか考えていたら、いつの間にか空を舞っていて、いつの間にか地面に突っ伏していた。

「せんせー、そんなやつにかまってないで、おれらとあそぼー」

「あそぼー」

「あんたらめっちゃくっちゃ失礼っすねっ!!そんな奴で悪かったな」

「そうねぇ、元君たちがもうちょっと大人になったらね」

「大人になったら乗り換えられちゃうんだっ!?」

「いや、まぁ、普通に?」

「そんな『当たり前じゃない、え、何、知らなかったの、わっおっくれってる〜』みたいな反応しないでよっ!」

 

 

 何だかんだで、僕達はセオリー通りにことは運ばない。

 買い物に行ってもあまり物は買わないし、映画を見てもハズレ物。ついでに僕はガキンチョ共に足蹴にされる始末。普通だったら、別れてもおかしくない、いやむしろトラウマになってるかもしれない。

「ほら、陽平。いつまでもそんな格好してないで」

「あ、そうだね」

 杏が僕を引っ張りあげて、シャツについた砂利を払った。

「ん?何よ?」

「別に」

「ははーん、さてはあたしのかわいさに見とれちゃった?ま、陽平も所詮は人だしねぇ」

「さーね」

「何よヘタレ。言い切っちゃいなさいよそれぐらい」

 少しすねた顔をする杏。そしてその横で苦笑いする僕。

 でも、何だかそんなのが僕ららしいな、とかふと思って、僕は笑った。

 

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